海の武士団

長崎県北部から佐賀県北部の入り組んだ海岸線は、その環境から歴史的に海と関わる生業をもつ住人をはぐくむことになりました。 それは必然的に船と関係する人々が多くなったのです。これは武士も同様で「海の武士団」とも呼ばれる松浦党(まつらとう)になりました。 松浦党は源平合戦の壇ノ浦の戦いで平家方の水軍の主力となったことが記録されています。鎌倉時代の元寇では多くの松浦党が討たれました。

この元寇以後、報復的な意味や国内事情もあり朝鮮半島を襲う倭寇が猛威をふるうようになりました。李氏の朝鮮が成立すると、倭寇懐柔策が功を奏し鎮静化に向かいます。また、勘合船貿易(遣明船)では、松浦党は船団を護衛する水軍として室町幕府より認められました。

やがて室町幕府が衰退し、また16世紀半ばに日本で良質な銀がとれるようになると、中国系海商らが中核となる密貿易が活発になり、倭寇行為に及ぶようになりました。1540年代に倭寇の首領、王直が平戸に本拠をおきます。当時平戸は「西のみやこ」と称されるほどの繁栄を迎えました。これは1550年のポルトガル船平戸入港のきっかけとなり、その後もオランダ船、イギリス船の平戸来航へとつながりました。